シスアド

見る者は見られる物である(Krishnamuruti)


物は素粒子からできている。 素粒子はしたがって物より小さい。 ところが素粒子は波動であるので無限に広がっている。 小さいどころか大きい。
いま物理学はとても面白いところにきている。宇宙や自己という哲学と直結しているからだ。 素粒子って結局のところわけのわからないものだ、ぐらいでお茶を濁してしまってはもったいない。 その解釈によって新たな認識の拡張を人類に迫っている。

では素粒子とはなにか?
それに対してこう考えている。「素粒子とは認識である」 何の認識かといえば、皆が思っている共通認識である。たとえば、空間がある、と思っている。何か(りんごとか)が在ると思っている、自己がいると思っている。 皆のそうした認識。
そうした認識が素粒子となっている。 たとえば、「見える」ことの認識は光子である。 光によって観測された物に存在というレッテル貼る。そのとき光を生成している。 モノの認識は空間上での回転によって統合されたものである。逆に、回転(群)がひとつの認識を与えているとする。ならば、「存在」は統合としての回転である。その回転の表現が波動関数になっている。したがって量子は存在認識である。 メルロ=ポンティの「意味の平面」に企投された存在の軌跡は回転であり、物理学的には時空上の意味の平面は場の舞台となる空間をあらわしているのではないだろうか。 すると世界の存在はミクロとマクロで回互的だということになる。


『回転』 ,『量子』 ,科学哲学会 ,科学基礎論学会