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今年のゼミのテーマ:茶道のモノとコト
ブログで授業内容を紹介 茶道における物事(モノとコト)の哲学 はじめにモノがあって人間はそれ見たり触れたりすることでその一面を知覚するというのが大方の見方であろう。しかし、フッサールはそれを逆転させることで哲学の歴史をぬりかえた。つまり、はじめに知覚があるからモノを想像できるとしたのだ。漫画はそれをよく物語っている。五感に生じた知覚がはじめにあって、それからモノを構想しているというのだ。それを志向と呼んだ。フッサールのこの発見により現象学とよばれる哲学が20世紀はじまる。 一方、東洋ではそうした哲学とは別に道に学ぶ伝統がある。たとえば茶道を例にとってみよう。茶道では、茶碗、茶杓、袱紗、鉄瓶、茶筅、茶巾、などの道具や茶菓子、抹茶がある。それらはまぎれもなくモノである。しかし、いったんお手前がはじまるや、主客は一連の所作、茶の湯の沸騰する音、茶の香り、菓子や茶の味わい、茶碗の姿、茶室の雰囲気などの五感に生じた知覚であるコトに注意する。その意味で、フッサールの哲学のようにモノからコトに還元された世界に身を置いている。 このように東洋の道と西洋の哲学に共通項を見出すことは可能である。しかし、そのはたらきの違い(前者は思考から離れて、後者は思考によっている)からその成果が異なる。たとえば茶の湯では、コトからさらに「道」へと誘う。 参考文献 数江教一、「受講の美学の骨子は、物に即して物を見るのではなく、目をおのれの心にむけ、冷え氷る無色の境地において、その心境にふさわしい美を対象から汲み取ることであった。」(“わび”、p94) 道 道とは何かを考えてみたい。それは千年前にも真剣に問われているので参考にしよう。 南泉因趙州問。如何是道。泉云。平常心是道。州云。還可趣向否。泉云。擬向即乖。州云。不擬爭知是道。泉云。道不屬知。不屬不知。知是妄覺。不知是無記。若真達不擬之道。猶如太虚廓然洞豁。豈可強是非也。州於言下頓悟。(無門関第十九則1)) さらに遡ること今から2500年前にすでに老子は道を説いていた。老子曰く、 道可道非常道。(道徳経2)) 道に関する説明において、両者に共通点がある。それは、「常」3)という字である。常とは尚+巾であり、永遠を意味する。時間でいえば常時であり、空間でいえば広大無辺4)のである。道とは常であるといっていい。無限のものが平常心とどのように結び付くのか考えてみよう。いま、あなたの前に広大無辺の布があるとしよう。その無限大の彼方とはどこにあるだろうか? 実験してもすぐわかることである。それは観察している当の本人こそが無限にひろがる布の縁なのである。視界の限界には本人がいるである。その意味で自己の様子こそが常なのである。だから広大な布だったり、日常だったりする。だから、道とは自己である5)といえるのではないだろうか。
1) 無門慧開(むもんえかい、1183〜1260年)が編集した48の公案集(こうあんしゅう) 読み下し:南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。泉云く、平常心是れ道、州云く、還って趣向すべきや否や。泉云く、向わんと擬すれば即ちそむく。州云く、擬せずんば争(いか)でか是れ道なることを知らん。泉云く、道は知にも属せず不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、猶太虚の廓然(かくねん)として洞豁(とうかつ)なるが如し。豈に強いて是非すべけんや。州、言下に於て頓悟(とんご)す。 訳:趙州 「道とはどういうものですか」 南泉 「平常心是道」(ふだんの心が道だよ) 趙州 「平常心という道はどこにあるかと探し、つかむことはできますか」 南泉「つかもうとすれば道からそれる」(道を自分の外に求めて探し廻れば道からはずれてしまう) 趙州 「道をつかもうと向かわなければ、どうして道を知りえますか」 南泉 「道は知と不知とに属せず。知識は錯誤であり、不知は虚無だ、もし真に疑いのない道に達っせば、大空の如くからりとしてわだかまりがない。ことさら是非など微塵もない」 その言葉の終わらぬうちに趙州はいっぺんに悟った。 2)老子(紀元前5世紀) 道徳経第1章 「道の道とすべきは常の道にあらず」 以上、茶道におけるモノ、コト、道についてふれた。 モノからコトへ。そして、コトから道へと茶道は誘う。 道とは今の様子(平常心)である。 モノは、五感を通してコトとなる。 コトを今の様子として味わうその真っ只中において道となる。 そのとき理性から出る必要がある。余分なもの(思考の垢)すべてをこそぎおとして今に参じること、それこそが侘びである。 レポートを書くために
レポートをどのように書いたらよいのかを考える。レポートとは論理的に主張された報告書である。論理的であるとは主張にもっともな理由があることである。結論だけを書かれていてもなんら説得力がない。 理由はどのように表現されたらよいかといえば論理形式をとればよい。論理形式とは数式のように論理的に理由が表現される形式のことである。 1) AはBである。 2) BはCである。 3) AはCである。 この論理形式に、たとえばA=「川」、B=「流れる水の全体」、C=「流れない」を代入してみよう。 1) 川は流れる水の全体である。 2) 流れる水の全体は流れない。 3) 川は流れない。 1) と2)を認めると3)は必ず認めざるを得ないので、1)と2)は主張3)の妥当な理由となる。したがって、論理的に主張された報告書とは論理形式をとればよい。 論理形式をそのまま1)2)3)と連ねるのはレポートを考える段階においてである。実際にレポートを書くときには3段階の論理形式を文章の中に含ませればよい。これら3文を親切にわかりやすいように膨らませたのがレポートといえる。さらに結論である3)の文を疑問文にしたものをはじめのほうに書いておくと全体として筋道が明瞭になる。例文の場合、「川は流れるか?」という文がはじめに書かれていれば、読者はレポートの最後に「川は流れない」という結論に出会うことになる。 以上のことから、レポートは論理形式を含ませて書けばよいことになる。 注意:上記の文において1)2)3)がそれぞれ下線をひかれている。 また、はじめの疑問文と結論が網掛けになっている。あなたのレポートも練習のためにそのように書くこと。読者は?から!の流れで読むことになる。 講義>情報を学ぶ・ことばの力・トップ 研究>はじめに ・存在 その他>システム思考 ・合氣道部 ・NPO ・著作・広報 ・ブログ |